第387回「正義中毒と7つの習慣(議論ができない日本人)」-3

児玉伸也のブログ

「7つの習慣」は人が人らしく、自分らしい人生を生きるための、そして個人にも組織にも人間関係に置いても、長期的・継続的な効果(豊かで実りある人生)が得られる「原理原則」が描かれた書籍です。

原則とは・・・①万国共通で不変なもの
       ②質の高い結果を生みだすもの
       ③私たちの内面の外側にあるもの
       ④私たちが理解しなくても、受け入れなくても、必ず作用するもの
       ⑤自明的であり、理解すれば私たちに大きな力を与えてくれるもの

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「議論が出来ない日本人」と聞くと「確かに!」と思われる方も多いのではないでしょうか。

*ここで言う議論とは、無意味な議論では無くてシナジーを創り出すような“建設的な議論”のことです。

そもそも「建設的な議論」とは、勝ち負けではなくて、どうしたらもっと良くなるのか、この案をもっと大きな案にする第3の案はないだろうかと、シナジーが生まれることを信じる議論、姿勢です。

先ず相手を理解し、そして理解できないところは質問し、最後に自分の意見を話す。

ここの部分は合意できるが、ここは何とかならないだろうか?とさらに議論を深めていく話し合い。

覚えていますか?no-dealという選択肢があることを。

「日本では主張と人格とが分離されず、容易に人格攻撃へとつながります」

この部分こそが「正義中毒」の最も恐ろしいところです。意見のぶつかり合いでは無くて、人格否定・攻撃が始まります。

議論はいつの間にか“怨恨を残す修羅場”と化します。

意見の違いが人格攻撃にまで発展する。「私の正義に異を唱えるお前は人格に問題がある」と言わんばかりに。

気にするほどでもないSNSの投稿に異常なまでに執着し、投稿者が謝罪するまで(謝罪するような内容で無いにも関わらず)攻撃の手を緩めない。それが一人また一人と増えていく現象はカルト的な恐ろしささえ感じます。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」を本当にやってしまっている感じ。

一人では理性と言うブレーキが歯止めをかけてくれることでも、集団になると個人の意志よりも集団への“忠誠心”が優先される。集団のなかの暗黙のルールに従ってしまう、あるあるな場面ですね。

「正しいと思うことをせず、他人や組織に忠誠であることを優先していたら、誠実とは言えません。その場では他者に受け入れられ、好かれるかもしれないし、忠誠心を得られるかもしれません。しかし、誠実さを欠いていたら、やがてはその人間関係にヒビが入るでしょう・・・誠実であれば、いずれは他者の忠誠心を得られます。しかし最初に忠誠心を求めようとしたら、それと引き換えに誠実さを捨てることになるでしょう」完訳版 p480

*誠実さとは、第1~第3の習慣を身につけて、自分自身に価値を置くこと、約束を守ること、言行一致であること、裏表がないこと、その場にいない人に忠実であること、原則を中心に生活すること。

「正義中毒」を克服するには、やはり「7つの習慣」が有効であると改めて感じました・・・続く。